オギーは常にオギー。OSK日本歌劇団『円卓の騎士』観てきましたよ
少し前、「あなたの四神知識はどこから?」というのが話題になっておりましたが、「あなたの『円卓の騎士』はどこから?」というのもなかなか盛り上がる話題じゃないでしょうか。「私は型月から」って回答が多そうな気もしますが。
というわけで、
つくば時代のバイトの先輩で舞台系オタ友である夏時雨さんの御誘いで、元宝塚歌劇団所属の荻田浩一氏が作・演出されたOSK日本歌劇団『円卓の騎士』を観てきましたよ。以下ネタバレ御免。
といってもですね、観劇直後のこのツイート
夏時雨 @natsu_shigure 先輩のお誘いで
— Ambrosia (@rumelia_momo) 2018年12月24日
OSK日本歌劇団 #円卓の騎士 へ。オギーは今でもオギーだった。演出というか雰囲気重視過ぎてストーリーが貧弱だが雰囲気があまりにもよすぎるために何もかも無視してしまうというオギーだった。
でだいたい言い尽くした感もあります。
や、もう冒頭で麗羅リコさんがしずしずと出てきたあたりですでにオギーワールド全開でしたね……あれを見た瞬間、「あ、これはつべこべ言わずに演出を楽しむいつものオギーのやつ……お芝居というより『ストーリー性のあるレビュー』として観ると幸せになれるやつ」と悟りました。
ただね、その演出というか雰囲気が圧倒的に良いわけですよ。圧倒的に。
演者さんの力量を余すところなく発揮する歌と踊りを堪能しているうちに時間が過ぎていく。
ストーリーがないわけではないのです。それどころか、最初から最後まで一本のラインが貫かれている。
ムードたっぷりの演出で盛り上げてくれますが、盛り上がり優先でキャラクターが設定と矛盾する行動をとることもありません。ストーリー(物語)は強固に書かれている。だから魔法は消えていくし、策士は策におぼれて自滅するし騎士は主君の奥方に恋するし英雄は無念のうちに死んで魔女は聖母になる。芯となる物語のラインはぼやけることがないのですよね。
弱いのはエピソード描写なのでしょうな。そのキャラがストーリー上そういう立ち位置にいるという設定だけで、それを具体的に描写するシーンがほぼない。
たとえば、アーサーとランスロットは「友」として描かれていますが、実は友情を感じさせる描写は実は見当たらないんですよね。「友という設定なのね」というのは観ていれば把握できるつくりにはなっているんですけど。
同様に、アーサーとグウィネヴィアの間の愛情もそう。「全体として抗いがたく、『魔法使いが策におぼれて自滅する』という設定どおりに事態が進む」中で、その策から外れたところにいるグウィネヴィアが目立たない。ヒロインとは。
(まあ、ヒロインは姉上なんじゃないかなあれ……最期に息絶える場所として妻じゃなくてねーちゃんの腕の中を選ぶからお前はダメなんだよアーサー)
魔法使いの意図を外れて惹かれあう過程がしっかり描かれていれば(歌と踊りの演出で済まされちゃってるんですよね)、そしてランスロットも交えた描写がもう少しあればなあ、と思うのですが(昔の正塚先生がお上手だった記憶)、これ書くと歌と踊りの時間が減ってしまうし、オギーの演出に関しては個人的には「いいぞもっとやれ」なんですよね。
というわけで、
誰かオギーに、魂の双子のごとき、めっちゃ映える演出のし甲斐のある脚本家をあてがってはくれぬものかと思う。あ、オギー本人は無理してストーリー書こうとしなくて良いです。そのままの君でいて。
— Ambrosia (@rumelia_momo) 2018年12月24日
という結論で終わるのです。長々書いたが二ツイート分でしかなかった。どっとはらい。